狂言を観てきた

狂言を観に行ってきた。

国立能楽堂にて、卯翔会という素人の愛好会による発表会みたいのがあって、ちょうど朝、ネットでみつけて無料とあったので、観に行った。

11:00開演の16:30終演と相当長いのだが、狂言は1演目あたりの時間が15分〜30分くらいのため、かなりの数の演目が公演されたことになる。

で、何故狂言かというと。

もともと僕は能にとても興味があり、NHK教育テレビの「古典芸能への招待」とかYoutubeなどで何作か観ているんだが、狂言はその能と能の幕間に実演される喜劇である。その流れで狂言にもかなりの興味があった。狂言は、公演の主たるイベントは演歌歌手のコンサートなんだが、その幕間で行わる漫才だとか、ストリップ劇場の幕間で行われるコントだとかそういう位置付け。

有名な狂言師野村萬斎なんかは、テレビや映画などにも出演していて、その演技の技量は言うまでもないし、あのフィギヤスケートの羽生弓弦に演技指導するほどの体幹を持っている。そういうところでも注目はしていたので、一度は生で観てみたいと思っていた。

プロの狂言師による公演に行きたいなと思っていたんだが(能とセットでの公演だとなおよい)、これがまた、本格的な公演だとチケットが高く、ブラっといけるようなシロモノではないんだが、今回いったような素人愛好会の発表会なんかだと無料であり、まーそんなにこの世界を深く知るわけじゃないので、素人公演でも雰囲気がつかめればいいか、タダだし、ということで、国立能楽堂へ。

荘厳な佇まいの国立能楽堂は、伝統的な能舞台を近代的な建屋に集約していてとても気持ちが良い。

雑多な庶民芸能もいいんだが、こういう格調高いところも魅力的である。

僕は、長男を伴い13:30頃入場した。

最初に、「千鳥」という演目をやっていたんだが、いきなり面白い。

プロの狂言界は、男のみの世界だが、愛好会だけあって、女性もあまた出演。この最初に観た舞台も、女性2人での実演。

まあ一言でいうなれば「ドリフのコント」である。

何もない能舞台の空間に、酒樽を模した作り物がひとつ。それを巡り、酒屋の主と太郎冠者がコントを繰り広げる。

能と違い、庶民の芸能のため、セリフも庶民の日常の言葉が使われるから、多少の古語も気にならずにすっと理解できる。(能は謡曲がベースのため、字幕があるか、何度かみて慣れないと、言葉を拾いきるのは難しい)

すごくシンプルな作りで、無駄を削ぎ落として、最大限の笑いの効果を発揮しているので、観てて退屈せず、また全体のストーリーもあっさりと短くまとめているので、飽きない。

あとは、登場人物同士の「間」がすごく良い。

まさに日本人的というか、掛け合いの際の微妙な空気とか、笑えるんだけどその裏に哀しさがあったりだとか、誠に日本人的お笑いの原点だなーって思えた。

狂言噺家により言葉だけで表現したのが、落語であろうし、近代以降に入ってくるコメディ、ボードビルだとか、漫才なども、その原点に狂言があるような気がする。

もちろん、狂言のさらに原点である猿楽などドンドンとさかのぼることも可能だが、現在にまで残っている形式の芸能としては、やはり狂言が原点であろう。

狂言の演目は、中世室町時代から連綿と続くものなんだが、現在にあっても十分に笑えるし楽しめる。これは、狂言の演目がすなわち、人間の普遍的内面に根差したものであることと、日本人特有の文化とか心象とかが、現在にも継承されているということだろう。結局のところ、ドリフのコントにしても、何故あれだけおかしくて、今においても笑えるのか(ドリフのコント自体がもう半世紀近くも前のものである!)、それが人間の普遍的内面に根差したもので、かつ日本人特有の「間」を会得しているからだと思うのだが、ここが、狂言とドリフの共通項なのかもしれない。

狂言においては、さらにそれが、長い年月にわたって世襲されている、かつまた、一流の狂言師になるための発声、所作、呼吸などにおいて厳しい修行を得て実演されるものであるため、特に洗練されている。

その身体技法は、ある種、究極的であり、そのため、野村萬斎が羽生弓弦に演技指導するといった状況が生まれるのだろう。

でまあ、ちょいと深みにはまって考えてしまったんだが、こういった和の洗練された所作というのは、くどくどしい無駄な説明や動きを避け、伝えたい部分だけをバっと抜き出す潔さを感じる。

昨今、なんでもそうだが、妙に説明的すぎて退屈してしまうことがままある。

これは欧米化現象なんだろうが、確かに欧米的なものって、派手でくどいくらい説明的であったりするんだけど、そうなればなるほど、妙な安っぽさも感じてしまう。

多くを語らずともわかるとか、呼吸が合うとか、間の取り方とかを生み出すのはお互いの共通感覚(コモンセンス)が必要になってくる。

グローバル化の昨今、価値観が多様化し、多くを説明しないと違う価値観の人の理解を得られないという状況も理解できるんだけど、

日本人にしかわからない感覚、日本人のみが共有する感覚というものはもっと大事にされてもいいんじゃないかなーって思ったりする。

昔の教養人というのは、歴史や古典に通じる人のことを指したようだが、一般庶民で学を持たない人でも、一定の歴史や古典、または風俗・文化についてはある程度わかっていたという。

だからこそ、多くを語らずとも理解しあえる表現が可能だったのだろう。

これも時代の潮流だといえばそれまでなんだが、この日本人特有の美意識は、シンプルでスマートでカッコイイものだと思うし、いつまでも残しておきたい日本人の心的資産である。

狂言鑑賞は2/25であり、当日記は2/26に書いたものです。

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