なぜ「思い出のマーニー」は難解なのか

結構入り組んだ倒叙モノのミステリーも、たいてい一度で理解出来る方だと思っている。読み返したりもするけど、たいてい、ああ、あそこで、と見当がつくもので、そこを反芻することで理解が確信になる。

だけど、「思い出のマーニー」は何度見ても腑に落ちない。よくわからない。

何がわからないのかを説明するのも難しい。話はちゃんと収まっているように見えるからだ。ハッピーエンドっぽいラストシーンが尚更そう思わせる。

だが、この話は決してハッピーエンドではない。杏奈の視点から見ればなんとはなしの成長譚としてハッピーエンドっぽくもあるが、マーニーの視点で見れば転落の人生の端緒の夏の一日とも言える。

そう、この物語は視点が定まらないから気持ち悪いのだ。杏奈とマーニーのこの幻想の出会いは、一体どちらの視点の物語なのだ。

いわゆる倒叙ミステリーというのは、得てしてこの一人称視点を駆使して作られる。作る側もそれが分かっているから、そこはきっちり描かれる。

ところがアニメ「思い出のマーニー」は三人称視点で描かれ幻想シーンですら誰の幻想なのか判然としない。特にクライマックスと言える嵐のサイロのシーンは、この視点の混濁により祖母との共振を起こすという重要なシーンであるにも関わらず、その導入で観客は杏奈とマーニーのどちらの不安に寄り添って見るべきなのかわからないまま放り出され、その後でマーニーが窓越しにごめんなさいと謝っても、それが一体誰に向けられた謝罪なのかわからないことになる。

原作がどうなのかは知らないが、普通考えれば、ここで出てくる少女のマーニーが一夏を共に過ごしたのは杏奈の形をした和彦だったと読める。ボートの出会いから杏奈とのエピソードはそのまま和彦との逢瀬の焼き直しであり、杏奈は和彦に仮託した形でマーニーの少女時代を追体験すると読むべきなのだろう。実際、同性にしては二人の関係は濃密だ。そうなるとサイロから助け出したのは和彦で取り残された杏奈は別人。その別人に置いてきぼりにしてごめんなさいと言ってしまったら、マーニーが別人だと認識していることになってしまう。それじゃあすべてぶち壊しじゃないか。(思わせぶりなあのコートも全く逆効果だ)

ところで、なぜ原作者は杏奈を男の子にしなかったのか。そうすると孫である杏奈はおじいちゃんにより近接してしまいマーニーに対するシンクロニシティーが弱まるからだろう。性別が意識されない思春期前の設定にはその意味がある。

どうもその辺の複雑な関係に、この監督は思いが至っていなかったんじゃ無いかと思えて仕方ない。いや、わかっていてもそれを表現する表現力がなかったのか。

少女のマーニーとの出会いから物語は始まるが、杏奈は祖母のマーニーとのふれあいがなかったわけではないのだから、せめてその暗示くらいを前提に持ってくるべきじゃなかっただろうか。目の色とかではなく、例えば幼児期のうすボケた母親の記憶が老婆過ぎて現実と思えない、とか。

結局、この作品は視点に対する洞察が足りないのがいけないのだと思う。その為、見ている方も混乱してしまい難解に思えてしまうのだ。

杏奈とマーニーそれぞれの視点を混在させたいのなら、モノローグを入れるとか一人称視点を入れるとかいくらでも方法がある。あえてなのか、そういう手法が使われていないので、視点が定まらず観客は放り出されてしまうのだ。